雨期の雨

今日、たまたま土砂降りの中、スーパーカブに乗った。
梅雨の雨と雨期の雨は、少し違うかもしれない。
それでも、蒸し暑い雨の中、バイクに乗っていると色々と思いだすことがある。


タイは今、雨期のど真ん中。
かの地から届くメールによれば「毎日、雨で客が少ない」とか、「雨が降って、それがやんだらとっても暑い」とか。
なるほど、都会ではそうなのかもしれない。


私は田舎に住んでいたからか、雨が降ると、涼しく快適に過ごせた。
家の建て方、特にひさしの長さが適切なので、どんなに土砂降りになっても、窓から雨が吹き込むことはない。
だから開けはなった窓から涼しい風が部屋にはいる。
雨が降っている間は、虫も少ない。
蚊は減らないが、扇風機さえ回しておけば、蚊にさされることもない。


そもそも雨期の雨は豪雨ではない。
たまには豪雨もあったかもしれないが、多くはない。
かといって、古典的な梅雨空のようにしとしと降る訳でもない。
一日のうちの何時間か、それなりの強さで降った後は、また晴れている。
毎日ではないけれども、よく雨が降る、そんな感じの数ヶ月だったと思う・・・多分。


雨期でも別段、気にはせず外出する。
市内まで行くと30分以上は走るので、用事を済まして帰る時に、雨に降られる時もある。
行く前に降っていたら、外出は取りやめるのだが、途中で降る雨はさけようがない。


でも一応、対応策は練っている。


雨期の外出で靴下をはいてはいけない。
スーパーカブ型のバイクの弱点は、水たまりに突入した時に跳ね上げる水で、足がびしょびしょになること。
だから必ずゴム草履か、スリッパを履く。
雨期に革靴を履いてるやつは・・・よっぽどの変わり者だ。
学生も同様。
雨の日の学生の多くは、制服の靴ではなくて、スリッパを履いてくるやつが多い。
ぺたぺたと歩く。
ちょっとヘン。


雨の日のバイクは、万国共通で危ない。
かの地の人々は、ほとんど皆、傘をさしているので、より危ない。
バイクに乗りながらも、ママチャリに乗っているように、傘をさす。


それでも、みんなゆっくり走るから、あるいは自転車よりも安全なのかもしれない。
ブレーキは足でかけられるし。
雨が降っていなくても、日傘をさしてるオバサマすらいるのだから。


タイのバイク(というか東南アジア一帯)は、こんなバイクが多数派。
だいたい100CCから125CC。
写真のバイクはスズキ・スマッシュ110。
タイではなくて、ラオスビエンチャンで借りたレンタルバイク。
この手のバイクはクラッチがないので、片手で傘がもてる。

前回書いたムエタイ会場での小バクチの風景。
しかし、実際のところ、その他の場所ではあまりバクチを観ることはなかった。
都会に行けば、お金持ちが出入りする闇の賭博場があったりするのかもしれないが、それは私には全く関係のない世界。
要するにチンチロリン花札のようなものはみたことがない。


ただ、バクチではないが、タイの人々は、宝くじが大好きだ。
道ばたでも売っているし、レストランなどにいくと、どこからか宝くじを持った老若男女が「宝くじ、買いませんか?」という言葉とともに通り過ぎていく。


ところがある日の放課後、用務員の部屋でビールを飲んでいると、彼らが小金を集めている。
酒を買い足すのかと思って財布を出すと「違う」という。
じゃ、なんで金あつめてんだ、と聞くと、数字にかけてるんだよ、との答え。
要するに、公的な宝くじの数字を使って、私的に宝くじをやってるらしい、と理解。
「先生もかけろ」と言うので、5バーツ(15円)を出して、適当に数字を言ったが、はずれたらしいことは後日知った。
用務員の連中も、せいぜい20バーツをかけている程度で、当たろうがはずれようが、大した儲けはない。


とはいうものの、5バーツは私にとってはそれなりに意味のある金額だったのだ。


毎日5バーツのコインを握りしめて市場に行く。
自転車をこぐこと5分。
到着。
そして1袋5バーツのお菓子を買う。ときおり2袋。
他の市場では大体10バーツだったが、なぜか近所の市場の、婆さんが売るお菓子は5バーツだった。


基本的には餅のお菓子。
ココナッツの果肉やココナッツミルクが主な具材。
餅米の米粉を蒸してお餅にしているらしい。
基本的には甘いお菓子だが、あまり甘くない大豆や何やら甘くない具(詳細は不明だがココナッツの果肉らしい)が入っていることもある。


カノムグルア
バナナの葉っぱに包んで蒸したお餅。
ココナッツの果肉を甘く煮た具が入っている。


緑の色は食紅らしく、たまに失敗なのか、青い色になっていることもあった。
勿論、味は一緒だが、緑青を食ってるみたいで不気味だった。
しかし、タイ人は気にしない。


とにかく毎日のように市場に通って、5バーツのお菓子だけを買って帰る日本人を、不思議に思ったらしい。
婆さんは、そのうち売れ残りそうなお菓子をおまけで入れてくれるようになった。
有り難いが、1人暮らしの私に2袋のお菓子。
食べきるのに苦労した。


小さい村の市場での私の行動は筒抜けなので、多くの人に「あんた、あそこのお菓子ばっか、食べてるらしいわね」と言われる。
その度に「そうそう、あれが好きなんだよね」と答えたが、ほかの場所で買ったお菓子と、それほど味に違いがある訳ではなかったので、婆さんの味が好きというよりは、毎日の習慣みたいなものだったのだろうと思う。


いずれにせよ、片道5分の自転車こぎでは、お菓子1袋分のカロリーを消費できる筈もなく、当時の私の腹回りには、お菓子起源の脂肪が沢山ついていたに違いない。

時計屋がセコンドになる時

ついでだからムエタイの事を書いておく。


近所にムエタイのジムはなかったが、時々、興行がやってくる。
試合会場は学校の体育館。
私は学校の敷地内に住んでいたので、家の庭で試合をしてくれるようなものだ。


100バーツ(300円くらい)のチケットは校長がくれた。
興行主がくれたリングサイド、最前列の席。スペシャルリングサイドチケットだ。


8時くらいに試合はスタート。
最初は子供の試合。多分小学校低学年。
まだガキだが、試合前の踊りは大人と同じ。
あの踊りは「ワイ・クルー」という。
「ワイ=拝む」「クルー=師匠」、つまり自分を育ててくれた師匠への感謝を示す踊りなのだという。
ガキがそれを理解しているかはしらないが、格好はついている。


本来、ムエタイの試合中は音楽がずっと生演奏されるものだが、地方興行では、CDで代用されていた。
しかし蛇使いのような音楽の暑苦しさは同じ。


2試合目は女の子の試合。大人じゃなくて中学生くらいだった。
1回の興行で1試合か2試合は女子の試合があって、勿論可愛い方の選手を中心に応援するが、私が応援する方は大概負けた。
ルールで決められているのか、テコンドーの試合でつけるような防具を付けていた。


それから後は男だらけ。
ひじ打ちOKのムエタイルール。
10代半ばのガキから大人の試合へと、だんだん移っていく。
ムエタイの試合はKOで決まる試合が少なく、ねちっこい試合が多い。
よっぽど好きな人以外は、途中で飽きる。
私も好きな方だが、だんだん眠たくなってきた。


しかし、客は熱狂しまくっている。
周りを見渡すと、商店街の時計屋のおっさんがいた。
彼の奥さんは美人だが、彼はちょっと痩せたサモ・ハン・キンポーだ。
おっさんは、周りの面々と比べても特別だ。
熱狂的ムエタイファンなのかと思ったら、札束を握りしめている。どうやら賭けているらしい。
試合が終わる度に、小銭(多分100バーツとか50バーツとか)を胴元の爺さんに渡す。


大した金額ではなくても、金は人を変える。
時計屋のおっさんは、試合ごとに目の色を変えていった。
そのうちラウンドの間には選手のそばまで行って「落ち着いていけ!!!」とか言い始めた。
熱い。


当たり前のことだが、試合は誰かが勝ったり、誰かが負けたりしながら続いていく。
今日初めて名前を聞いた東北部の県や遠く南部地方からやってきた選手たちを眺める私にとって、勝敗
は試合終了以上の意味を持たない。
私は眠い目をこすりながら、ぼんやりおっさんを眺めていた。


最後の試合は、熱戦だった。
クリンチで間合いを殺し合うことなく、距離をおいて打ち合う時間が長い。
目が覚めた。
時計屋のおっさんは試合中も席から立ち上がり、リングの周りを終始うろうろするようになった。
声は一層大きい。


この試合は、おっさんにとっても大勝負なのだ。


3ラウンド目終了のゴング。
残り2ラウンド。試合は少しずつ膠着してきた。


あ、と思ったとき、すでに時計屋のおっさんはリングの上だった。
選手をマッサージしていた。
鋭い声で檄を飛ばし、強く肩を叩く。
最初から付き添っていたセコンドのように。


次のラウンドはそのまま始まり、おっさんはセコンドの中に混じってしまった。
とても、とても自然に。


4ラウンド。
打ち合いが、また始まった。
おっさんのマッシュルーム型の髪はびしょ濡れになっている。
確かに暑い。
だんだん、おっさんの目が赤くなってきた。
泣いていた。


5ラウンド。
2人とも最後まで打ち合い続けた。
最終ラウンド終了まで、セコンドのおっさんは、枯れた声で何かを叫び続ける。


ゴング。
試合終了。


判定。


レフェリーがリングサイドのジャッジのポイントを確認する。
流れ続けていた音楽が消えて、場内は少し静かになった。


レフェリーは2人の選手を脇に立たせ、その手をとる。
そして無言のまま、あっさりと片方の手をあげる。


時計屋のおっさんが吠えた。
そして、その日初めて会った筈の隣のセコンドたちと抱き合った。
疲れ切った様子のボクサーに近づき、彼を高く抱き上げたおっさんは、もう一度、大きな声で吠えた。


客は次々と帰っていった。
3人が密着して乗るバイク、荷台に数人の人を乗せたピックアップトラック
30分もしないうちに誰もいなくなった。
あたりはゴミだらけだが、片づけは明日するらしい。
そのとき時刻は、夜中12時過ぎ。


静かになった校内を、サンダルをぺたぺたと鳴らしながら、家に帰った。
そして、テレビはつけずに、そのまま寝た。
部屋の中は暑かった。

チョコレート・ファイターはテコンドー・ファイター

公開中の映画の話。
チョコレート・ファイターのこと。


私が日本に帰ってくる前に、すでにタイ国内では公開されていたし、DVDも売っていた、このチョコレート・ファイター
観たくてたまらなかったのだが、いかんせん、私の住む地域には映画館がなかった。
県の中心地には古びた映画館があったが、家から約60キロの山道の果て。
休日にちょっと足をのばすには、少々距離が遠かった。
DVDを買おうかとも思ったが、まだ定価から値下がりしてなかったので買わず。
結局、このアクション大作を観ないまま、私は帰国してしまった。


しかし、そんなチョコレート・ファイターもついに日本公開。ライムスターの宇多丸も激賞している。(http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20090613_hustler.mp3


そんなに面白いのなら観てやろうじゃないか、と思ったら、近所では公開していない。
つくづく、この映画と縁がないらしい。


やるせない気持ちで、公式ホームページを眺めていて、気が付いた。
主演の女の子ジージャーはテコンドーの使い手らしいのだ。
タイはムエタイの国だ。
それなのに彼女はテコンドー。
誰も疑問に思ってないらしいが・・・


しかし、私にとってもこれはそれほど意外なことではない。


田舎だったこともあるが、私の家の近所には全くムエタイのジムがなかった。
学校のクラブ活動も同様。


ところがテコンドーの胴衣を着た小学生の姿は頻繁に見かけた。
理由は、嫌になるほど単純で、テコンドーはオリンピック競技だから。
実際に北京五輪でも、女子のタイ人選手がテコンドーで銀メダルを獲得している。


テコンドーの道場に通っている女子中学生に
私「なんでムエタイやらないんだよ」
娘「テコンドーならオリンピックに出られるかもしれないじゃないですか」
私「でも、ムエタイの方が強いぞ」
娘「でも、痛いです」


もしかしたらムエタイは時代遅れで古くさいもの、というイメージがあるのかもしれない。
世界最強の立ち技格闘技も、オリンピックには勝てないのか、と悲しくなった。


でもムエタイは強い。それだけは間違いない。
近所のカラオケ屋のウエイトレスの女の子が「あたしねぇ、ムエタイの試合、出たことあるわよ」と言っていた。
「勝ったの?」と聞いたら「負けた」というので、それほど強くなかったのだろうな、と思っていたら、しばらくしてその子は店から居なくなった。
ジャイ子によく似たもう1人のウエイトレスに「どこ行ったの?」と聞いたら、「なんだかよく分からないけど、他のウエイトレスと殴りあいのケンカになって、私もひっかかれてタイヘンだった」とひっかき傷を見せた。
かなり強かったらしい。
せっかくだから、本場の肘うちかローキックのひとつくらい食らっておけばよかった、と、ちょっと残念に思った。

デイヴィッド・キャラダインバンコクで客死。


と、言っても彼の大ファンという訳ではなくて、ただ手元にタイ版の「KILL BILL」のVCDがあったのを思いだしただけだ。
キルビルのVCDのジャケット。
KILL BILL」の時の下に、タイ文字で「サムライ天使」と書いてある。


VCD=VideoCDは日本では見かけない、マイナーなメディアだが、タイではまだまだメジャーに流通している。
DVDよりも画質は圧倒的に悪い。
3倍モードで録画したビデオの画像程度。
1枚に60分くらい収録できるので、大概の映画は2枚組。
音声は吹き替え。


主役は太い男らしい声、娘役は過剰にブリブリした声だったりして、日本のアニメとは別の形で「吹き替えの世界」を構築。
それはそれで面白いが、好き嫌いはまた別の話。


今回「KILL BILL」のジャケットを見直して初めて気が付いたが、タイ語で「サムライ天使」と書いてある。
サムライは英語同様にタイ語でも通用する日本語のひとつで、時代劇は「サムライ映画」と呼ばれている。
1枚100円以下のワゴンセールのVCDをあさっていると、ミフネやカツシンのお姿を見いだすこともしばしばだったことを思いだす。


私がタイに行った最初の頃、中古のバイクを探して街のバイク屋をのぞいていたら、バイク屋のオーナーらしい爺さんが話しかけてきた。
「あんた、日本人か?」
「そうだ」
「そうか、そうか。日本人はいいなぁ。シライやミフネは良かったなぁ」
爺さんは英語みたいな言葉と身振りで喋っていたが、最初はなんのことか分からなかった。
「ミフネ」は三船敏郎、「シライ」がボクサー白井義男の事だと気付くまでの10秒以上の時間、随分汗をかいた。


ところでデイヴィッド・キャラダインの遺族が、新聞に彼の遺体の写真が掲載された件で、激怒しているという。
新聞の一面に死人…。


遺族の気持ちも分からないでもない。
が、なぜかタイの新聞の一面には、事故、事件を問わず、死人の写真が必ず掲載されているので、そういう意味では、さほど驚くにはあたらない事件ではある。
最近は一応、傷口や銃痕などにはモザイク処理が施されているが、それでも必ず掲載されている。
「なんで?」とタイ人に聞いても、誰も答えられない。


世の中には需要がなくても供給されるものもある、ということらしい。
このブログと一緒だ。

鉄板ブタ

前回の続き。
さすがに日本では報道されなくなってきたが、「行方不明になってしまった日本人の親をさがすタイ人の子供」が数人、あらたに登場してマスコミに取り上げられている模様。


しかし、これはあらかじめ予想された事。


私の狭い生活圏内でも、日本人の父を持つ子供を数人みた。
例えば韓国人の子供の事例を私は知らない。
勿論、さがせばいるのだろうが、単純に数の問題なのだろう。
やはり日本人は、かの国にそれなりに大きな足跡を残しているのか。


◇◆◇
さて、収束に向かっているブタの話の続きも書き記しておかねばならない。
なんと言っても、私は豚肉に大いに感謝しなければならない立場にある。
おそらく少し前の私の身体の50パーセントくらいは、豚肉が資本だったのだから。


つまりこういうことだ。
そのころ私は粗食を旨としていた。
少し正確にいうと、めんどくさいので1日に1度しか食事をしなかった。


その1度の食事も、わざわざ市場までおかずを買いに行くのが面倒くさかった。
とりあえず米は買い置きしてあるので問題はない。
そこでおかずとして、日本のものよりだいぶんと太い、形としてはナスに近いようなキュウリをビニール袋にひと袋、10バーツ(約30円)で買い、2、3日もたせる。


―というような、ものぐさな食生活をしていたのだが、数日に1度は贅沢をしてみたくなる。
そこで、その街に2軒ならんで建っている焼き肉屋に行くことになる。


焼き肉と名前にはあるが、使う肉はブタとトリ。
名前を「ムーカタ」という。
「ムー」はブタ、「カタ」はフライパンのことで、直訳すれば「鉄板ブタ」ということか。
ちなみに「ムーカタガオリー」というのもあって、「ガオリー」とは「韓国」の意。
つまり「韓国風鉄板ブタ」ということで、これが私たちが想像する焼き肉なのだと思う。
「思う」というのは近所(私の住んでいた県内)には「ムーカタガオリー」の店がなくて、行ったことがなかったから。
今度訪タイする時、是非とも食べに行きたいと思う。


さてこの鉄板ブタ。
日本で考える焼き肉とは若干違う。
ブタを鉄板で焼くのは同じ。
だが、なぜか野菜はスープで煮る、つまりお鍋形式で食べる。

ムーカタ(鉄板ブタ)
端に見えるのが空芯菜


中央の突起部分で肉を焼き、周りのお堀部分にスープを入れて、野菜、春雨、ラーメンなどを煮る。
野菜は、白菜、空芯菜がメイン。
ブロッコリーをいれる店もある。


ブタ肉は赤身がメイン。
脂身のついた肉もあったが、どちらにしても歯ごたえのある肉。
つまり固い。
勿論、肝も食べる。
胃か腸のスライスもあって、私はこれが好きだった。


ブタだけでなく、鶏肉の胸肉も一緒に焼く。
胸肉をスライスしたもので、店によってはカレー粉で味付けをしていた。
固いブタよりも、トリの方が柔らかくて、私はこちらの方が好きだった。
ついでにスープ部分に、トリの手(正しくはなんと呼称するのだろう?)を入れて、柔らかくなった頃に食べる。
これも美味。


1人で食べるのが好きな私は、焼き肉屋に1人で行く。
開店と同時に。
1人だと、500ミリリットルのボトルをあけると飲みきれないので、注文せず、水も飲まずにひたすら食って帰ってくる。
飯代は1人89バーツ(300円弱)、さらに水を飲むと大体10バーツ、氷が5バーツくらい追加される。
前述のキュウリの値段を考えれば、私が水を注文する気にならないのも仕方がない筈なのだが、店の連中は「なんてケチな客だ」と思っていたに違いない。

いつもの話

ブタの事はひとまず置いて、時事ネタ。
うちの母堂も知っているくらいだから、日本でもそれなりにニュースになっていると判断。


ニュースとはこれ。
お父さん、見つかった!=少年に「近く電話する」
YOUTUBEにアップされてるタイのテレビニュースは、こちら(タイトルは
「負けない心を持った少年」)


事のあらましを引用。
「両親は2000年、タイで結婚。少年が生まれたが、バンコクで生活するため、ピチット県に住む親せきに預けた。父親は帰国し、母親は先月死亡。1人残された少年は、父親が迎えに来ると母に言われた同県の寺院で、日本人観光客らに写真を見せて居場所を捜していた。」


「母親を亡くした少年が、帰国した日本人の父親の行方を両国政府の協力を得て探していた」というところまでは、昨日の時点で分かっていた。
 今日の記事で「父親は少年の母親と5年前に離婚している」っていうの見て、完全に納得。
なるほど、いつもの話だ、と。


世界共通かどうかは知らないが、大体、離婚後、子供は母に連れられていく。
そうでない場合、都会で暮らす若い両親、あるいは母は、田舎の祖母、親戚に赤ん坊を預けるというパターンに。


何度も書いたように私はタイの田舎に暮らしていた。
だから都会に出稼ぎに出た母親の話は何度も聞いた。
逆に都会に行くと田舎から出てきた連中と出くわす。


例えば、ある友達は、子供の面倒みる人がいないで可愛そうだからと田舎の実家に帰っていった。
田舎の村には仕事がないから大変、と電話で話していた。


あるいは、知り合いの家にいる今年小学校に入る女の子のお母さんを私は見たことがない。
その家のおばさんに「あの子のお母さん、今はどこにいるの?」と聞いたら「それがねぇ、どこにいるのかねぇ?」と首をかしげていた。悩まれても、こっちが困るのだが。


以下、あえて曖昧に書く。


レストランとかのウエイトレスとか、そういう職業についてる、中卒や高卒の連中と話すのが好きだった。
言葉のへたくそな私とも、気長に会話してくれるから、その点も有り難かった。


十代後半か二十代初めに突発的に結婚。
子供がいてもいなくても数年で離婚。
理由は旦那の浮気。
男は大体、別の場所に女をつくって出て行く。
これが連中の半生のあらすじ。


話によれば、あの国の男はとにかくすぐに浮気する。
でも妻子ある男と付き合う女がいるから浮気が成立する訳で、そういう意味では男女持ちつ持たれつ、だ。


そういうレストランで飲むのは、氷を入れたビール。
「あの時、失敗しちゃったのよねぇ」なんていう話に相づちをうちながら、ぬるくならない代わりに薄くなったビールをちびちび飲ん
でいた私は、結局、誰の成功にも失敗にも関与しないまま、今に至っているのだった。